(一部抜粋)
「こんにちは」
向かいの席にトレイを置きながら、彼女が言った。
「…こんにちは」
私も挨拶を返す。いつもの昼食時だった。
今日のメニューは、ハンバーグ定食だった。冷凍食品を焼いただけと思しきハンバーグの横に、人参のグラッセが添えられている。私達はいただきますを言って食べ始めた。
「そういえば葉子さんって、何歳なの?」
「…二十二です」
「いつからここにいるの?」
「…もう忘れました」
特に意味の無い、会話をするための会話。
その合間に、私は何度か彼女にあの銀髪の少年のことを尋ねようとして、そのつど言葉を飲み込んだ。
あの少年との同居を強いられていることを、彼女はどう思っているのだろう。それに、事実上四六時中監視されている状態で規則に反した行動をとるのはあまりにも無謀すぎるのではないか。
今の状況を一体どう考えているのか、私は彼女に問い質したかったが、そうすると、私が彼女の個室を訪ねたことがばれてしまう。今になってみると、昨夜の自分の行動がひどく愚かしく後ろめたいことのように思えた。
もしかしたらあの少年が彼女に話してしまっているのではないかとも思ったが、彼女の方からその話題に触れてこない以上、おそらく何も聞かされていないのだろう。
「…ごちそうさま」
ぎこちない和やかさとでも呼ぶべき雰囲気の中でやがて私は食事を終え、席を立とうとした。と――
「待って」
突然、彼女が私のトレイを掴んで引きとめた。
「…何ですか」
「全部食べないの? まだ残ってるけど」
彼女は視線でトレイの上を指した。皿に、人参のグラッセが二つ、手付かずで残っていた。
「…あなたには関係の無いことです」
ぶっきらぼうに私は言った。実を言うと、昔から人参は苦手だった。だけどそんな好き嫌いが、いかにも子供じみているように思えて、それをよりにもよって彼女に見られたことが恥ずかしかった。私は彼女からトレイを引き離そうとしたが、彼女は両手でがっちりと掴んだまま放そうとしない。
「ねえ…」
瞳にいたずらっぽい光を宿して、彼女はトレイの向こうから私の顔を見つめた。
「もしかして、人参が食べられないの?」
「………そんなことはありません」
「だったら食べたほうがいいよ。緑黄色野菜は体にいいっていうし」
にんまり笑って、彼女が続ける。
「美容にもいいし、偏った食事は万病の元だっていうし」
「…大丈夫です。あなたのように不摂生を続けていませんから」
私はようやくそれだけ言い返した。
「だったら、私が食べてもかまわないよね?」
そう言うなり、私の返事を待たず、彼女はひょいと手を伸ばして人参をつまみ上げると、口の中に放り込んだ。
(あ…!)
ずくんっ、と胸が甘く疼いた。私の食べ残した人参――私の唾液がついているかもしれないものを、彼女が口に入れたのだ。
もぐもぐと美味しそうに、彼女が人参を咀嚼する。私の食べ残しが、彼女の口の中で噛み砕かれすり潰されて唾液と甘やかに混じり合い、ピンク色の舌に存分に纏わりついた後、嚥下され、彼女の体内に送り込まれる。そのことに密かな愉悦さえ覚えながら、私は彼女の口元が動くのを、息を呑んで見つめた。
「――? どうかした?」
こくんと口の中のものを飲み込んで、彼女が怪訝そうな顔をした。
「――い、いえ…美味しいのかなと思っただけです」
「普通に美味しいよ?」
「…嘘、ついてませんか?」
「ついてないよ、ほら――」
彼女は残ったもう一つにも手を伸ばそうとした。
「待ってください――食べてみます」
私は箸をとって人参を口にした。人参はやっぱり人参の味がしたが、バターと砂糖で甘く煮含められているおかげで、食べられないほどのことはなかった。何より、一つの皿に盛られたものを、彼女と分け合って食べている――そのことに私は、くすくす笑い出したくなるような気持ちを感じていた。
「ね…結構美味しいでしょ?」
「…まあ、食べられなくはないです」
内心を気取られないように、わざと気のない返事を返しながら、私はふと彼女のトレイに目を止めた。皿に、食べかけの人参が残っていた。
残り一つも彼女に食べてもらって、私はあっちを食べればよかった、と私は思った。彼女が口をつけた人参。きっととろけるように甘い味がするだろう。想像して、たちまち頬が赤く染まるのを私は感じた。
「失礼します…」
私は慌てて顔を背けると、食堂を後にした。
(「Girl's Talk〜彼女と彼女の事情」より抜粋)